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安藤百福クロニクル

安藤百福クロニクル

1. ベンチャー精神にあふれた若き日の安藤百福

  • 1930年代、次々と新事業に着手した頃

    創業者・安藤百福は、ハレー彗星が地球に大接近した1910年に生まれました。幼い頃に両親を亡くした安藤は、呉服店を営む祖父母のもとで、商売の現場を間近に見ながら育ちました。独立心と事業意欲が旺盛だった安藤が「誰もやっていない新しいことをやりたい」と、最初に選んだのは繊維事業。22歳の若さでメリヤスを販売する会社を設立すると、大成功を収めました。ほかにも、幻灯機の製造、炭焼き事業、バラック住宅の製造、製塩や学校の設立など、さまざまな事業を手がけた安藤。時代の流れをいち早くキャッチして、すぐに事業化するベンチャー精神と、失敗してもあきらめないバイタリティーは、この頃から芽ばえていたのです。そして、どんな事業も「何か人の役に立つことはないか」「世の中を明るくする仕事はないか」という安藤の確固たる信念のもとに行われていました。

    終戦後、食糧難となった日本では、おなかをすかせた人々が街にあふれ、栄養失調のために行き倒れになる人が後を絶ちませんでした。この悲惨な光景を見た安藤は「やっぱり食が大事。食がなければ、衣も住も、芸術も文化もあったものではない」と食の大切さを痛感しました。

    ある時、大阪駅近くの闇市を通りかかった安藤が目にしたのは、寒空のもと、1杯のラーメンを食べるために並ぶ長い行列でした。安藤は日本人が麺類好きであることを改めて実感したと同時に、この行列に大きな需要が隠されていることを確信したのです。同じ頃、日本政府はアメリカの余剰小麦を使った食事を奨励していたものの、そのほとんどはパンやビスケットになっていました。「同じ小麦を使うなら、なぜ日本人の好む麺類を奨励しないのか?」と安藤は疑問に感じていました。

  • 信用組合の理事長として執務にあたる

    1957年、安藤が理事長を務めていた信用組合が破綻しました。安藤はすべての財産を失い、残ったのは大阪府池田市の借家だけでした。しかし、安藤は「失ったのは財産だけ。その分、経験が血や肉となって身についた」と考え、自らを奮い立たせたのです。そして、闇市のラーメン屋台に並んだ人々の姿と、日本人が麺類好きであることを思い出し、"お湯があれば家庭ですぐ食べられるラーメン" を作ろうと決意。無一文の生活から這い上がるため、長い間あたためてきたアイデアの実現へ向けて、第一歩を踏み出しました。

2. 魔法のラーメン「チキンラーメン」の発明

  • 自宅の裏庭に建てた研究小屋 (再現)

    安藤は自宅の裏庭に建てた小屋で "お湯があれば家庭ですぐ食べられるラーメン" の研究を始めました。道具や材料はすべて自分で探し集め、1日平均4時間という短い睡眠時間で丸1年間、たった一人で1日の休みもなく研究を続けました。まさに死にものぐるいの日々でした。

    安藤は開発にあたって5つの目標を立てました。何よりもまず、おいしくて飽きのこない味でなければならない。そして、家庭の台所に常備できる保存性があり、調理には手間がかからないようにする。さらに値段が安く、安全で衛生的であること。しかし、目標を定めたものの、安藤は麺作りについてはまったくの素人だったため、山のような試作品を作っては捨てる日々が続きました。気の遠くなるような作業をくり返し、ようやく理想的な配合にたどり着いた安藤は、「食品とはバランスだ。食品の開発は、たった一つしかない絶妙なバランスを発見するまで、これでもかこれでもかと追求する作業である」と悟ったのです。

  • 研究小屋の内部 (再現)

    発売当時の「チキンラーメン」

    初期のテレビコマーシャル

    麺を長期保存するにはどうやって乾燥させればよいのか。また、お湯を注いですぐ食べられるようにするにはどうすればよいのか。この保存性と簡便性の実現こそが、インスタントラーメンの開発における最も高い壁でした。ある日のこと、安藤が台所へ行くと妻がてんぷらを揚げていました。熱い油の中に入れられた小麦粉の衣は、てんぷら鍋の中で泡を立てながら水分をはじき出していました。「これだ! 天ぷらの原理を応用すればいいんだ! 」安藤は早速、麺を油で揚げてみると、麺の水分が高温の油ではじき出されました。ほぼ完全に乾燥した状態となった麺は、半年間置いても変質したり腐敗したりしない保存性を獲得。加えて簡便性についての問題も、この製法で解決することがわかりました。注いだお湯が水分の抜けた穴から吸収されて麺全体に浸透し、元のやわらかい状態に戻ったのです。

    こうして、インスタントラーメンの基本となる製造技術〈瞬間油熱乾燥法〉のヒントが発見され、1958年8月25日に世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」が発売されました。お湯を注ぐとたった2分で食べられる「チキンラーメン」は、当時の常識では考えられない食品だったため《魔法のラーメン》と呼ばれました。

    発売当時の「チキンラーメン」の価格は1食35円。うどん玉ひとつが6円の時代に、これでは商売にならないと、問屋の主人たちは仕入れを渋りました。しかし、「チキンラーメン」を実際に食べた人々からの "おいしくて便利だ!" という声が日に日に高まり、やがて問屋へ注文が殺到。ついには、問屋のトラックが工場前で列をなして「チキンラーメン」のできあがりを待つほどの大ヒットとなりました。

    「チキンラーメン」が誕生したのは、ちょうど共働きや核家族が増え始めた時代。お湯を注ぐだけで食べられ、長期保存できるインスタントラーメンは、主婦の味方になりました。また、スーパーマーケットが日本に初めてできたのも「チキンラーメン」誕生の前年でした。それまでとは大きく異なる欧米型流通システムの登場により、インスタントラーメンなどの加工食品を大量販売するルートが切り拓かれたのです。さらに、テレビというメディアが人々の注目を集めたのもこの頃。当時はまだメディアとしての力が未知数だったにもかかわらず、安藤はいち早くテレビ番組のスポンサーになりコマーシャルを制作しました。「チキンラーメン」は、テレビの急激な普及と足並みを揃え、ますます広く知られるようになったのです。

3. 知恵のかたまり「カップヌードル」の誕生

  • 欧米視察で「カップヌードル」のヒントを得る

    1966年、「チキンラーメン」を世界に広めようと考えた安藤が、欧米へ視察旅行に出かけた時のこと。現地で訪れたスーパーの担当者たちは、「チキンラーメン」を小さく割って紙コップに入れ、お湯を注ぎフォークで食べはじめました。これを見た安藤は、アメリカにはどんぶりも箸もない、つまりインスタントラーメンを世界食にするためのカギは食習慣の違いにある、と気づいたのです。そしてこの経験をヒントに、麺をカップに入れてフォークで食べる新製品の開発に取りかかりました。

  • "逆転の発想" を生かした製造ライン

    完成した「カップヌードル」を前に

    新製品の開発は、容器を作ることから始まりました。安藤が理想とする "片手で持てる大きさの容器" を見つけだすため、40種類近くもの試作品を作って検討を重ねました。その結果、紙コップを大きくしたコップ型が採用されました。カップの素材として選んだのは、軽くて断熱性が高く、経済性にも優れた発泡スチロール。しかし、当時の日本ではまだ珍しい素材だったこともあり、薄く加工し、片手で持てる大きさに成型することは容易ではありませんでした。そこで、安藤は米国の技術を導入し、自社で容器製造に乗り出したのです。臭いがなく、食品容器にふさわしい品質に精製するまでには時間を要しましたが、米国食品医薬品局 (FDA) の品質基準をはるかに上回るカップを完成させました。

    カップは完成したものの、麺をカップに収めることも難しい問題でした。カップは上が広く下が狭いため、麺をカップよりも小さくすれば簡単にカップの中に入る一方、輸送中にカップの中で麺が揺れ動くので壊れてしまいます。そこで考え出したのが、カップの底より麺を大きくしてカップの中間に固定する〈中間保持法〉のアイデアでした。しかし、いざ麺をカップに収めようとすると、傾いたり、ひっくり返ったりして、うまくいきません。寝ても覚めても考え続けていた安藤が、ある晩、布団に横たわっていると突然、天井が突然ぐるっと回ったような錯覚に陥りました。「そうか、カップに麺を入れるのではなく、麺を下に伏せておいて上からカップをかぶせればいい」とひらめいたのです。この "逆転の発想" によって確実に麺をカップに入れることができるようになり、工場での大量生産が可能となりました。

  • 銀座の歩行者天国で試食販売を実施

    ほかにも容器のフタや具材、麺の揚げ方など、さまざまな知恵や工夫が詰め込まれた「カップヌードル」。安藤が「ひらめきは執念から生まれる」と語っていたように、新しい素材や技術を導入するだけでなく、自らも新しい手法を発案し、次々に課題を解決していきました。こうして誕生した新製品は、世界中で通用するように「カップヌードル」と名付けられ、1971年9月18日に発売されました。

  • お湯が出る専用の自動販売機

    「カップヌードル」を食べる機動隊員
    (写真提供:文藝春秋)

    「カップヌードル」は、袋麺が25円の時代に1食100円と高価で、また立ったまま食べるのは良風美俗に反するという意見も飛び出し、なかなか店頭に並べてもらえませんでした。そこで安藤は、自ら新しい販売ルートを開拓し、それまでにない宣伝や販売促進を行うことにしたのです。お湯の出る自動販売機は、「カップヌードル」を買ったその場で熱いお湯を注いで食べられると話題を呼び、1年間で全国に2万台が設置されました。また、若者が集まる銀座の歩行者天国に着目。「カップヌードル」の試食販売を実施すると、予想をはるかに超える人が押し寄せ、多い日には2万食を売り尽くすほど人気を集めました。

    そして、「カップヌードル」の人気を決定づける出来事がおこりました。1972年2月、連合赤軍によるあさま山荘事件です。この事件は連日テレビで中継され、山荘を取り囲む警視庁機動隊員が「カップヌードル」を食べている様子が映し出されました。思いがけず全国の視聴者にアピールすることになり、その時から「カップヌードル」は羽が生えたように売れ出したのです。

    「カップヌードル」は「Cup O’Noodles」の商品名で、1973年にアメリカ進出を果たしました。その後もブラジル、シンガポール、香港、インド、オランダ、ドイツ、タイなどに次々と拠点を設立。日本の味をそのまま輸出するのではなく、それぞれの国や地域の人が好むスープや具などを商品作りに反映させることで、「カップヌードル」は日本生まれの世界食となりました。

4. 宇宙でも人類の食を支える「スペース・ラム」

  • 野口宇宙飛行士と固い握手を交わす安藤

    晩年になっても製品開発への意欲を失わなかった安藤が、宇宙食の開発を宣言したのは91歳の時。プロジェクトチームを結成し、自ら陣頭指揮をとって開発がスタートしました。宇宙食ラーメン「スペース・ラム」は、無重力状態でもスープが飛び散らないようにとろみをつけ、麺を一口で食べられる大きさや形にするなど、さまざまな工夫を凝らして完成。しかし、その開発の基礎となった技術は、1958年に安藤が発明した〈瞬間油熱乾燥法〉でした。インスタントラーメンは発明当時から、宇宙時代にも対応する優れた食品であったことが証明されたのです。

  • 宇宙ステーションで「スペース・ラム」を食べる野口宇宙飛行士 (© NASA/JAXA)

    「スペース・ラム」は2005年7月、スペースシャトル・ディスカバリー号に搭載されて宇宙へ出発しました。人類として初めて宇宙空間でインスタントラーメンを食べた野口聡一宇宙飛行士は、国際宇宙ステーションからの中継で「地球で食べるインスタントラーメンの味がびっくりするぐらい再現されていた」と報告しました。「人生に遅すぎるということはない」と、95歳にして長年の夢を実現した安藤。新たな食の創造に対する熱意は、とうとう地球を飛び出して宇宙にまで広がっていったのです。

    2007年1月、初出式で全社員を前に訓辞を行い、新年早々から精力的に活動していた安藤。しかし、1月5日の早朝に体調を崩し、急性心筋梗塞で帰らぬ人となりました。日頃から「元気に生きて、元気に死にたい」と語っていた通り、風のように旅立っていったのです。その知らせはニュースとなって世界を駆け巡り、アメリカのニューヨークタイムスの社説にも取り上げられました。そこには "ミスターヌードルに感謝" と書かれていました。

    インスタントラーメンを発明し、世界の食文化を変えた安藤百福。安藤がチキンラーメンを世に送り出してから半世紀以上が経ち、その総需要は世界で1000億食を超えるまでになりました。96歳でその生涯を閉じるまで、"クリエイティヴな発想" と "最後まであきらめない執念" を持ち続けていた安藤の志は、現在も日清食品グループに受け継がれているのです。

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